汽車旅の記憶(7) 日中線【1981年3月】

 会津盆地の北部、喜多方-熱塩間11.6キロを結ぶ日中線は、「その名に反して日中は列車が1本も走らない」と揶揄された赤字線でした。私が来訪したのは1981年3月、所属していた鉄道研究部の「卒業合宿」です。
 当時、会津盆地の北と南には、(旧)国鉄が日中線と会津線(現在は会津鉄道)という2本のローカル線を走らせていました。国鉄完乗記である『時刻表2万キロ』を書いた宮脇俊三氏は、この2線を「一括して片付けるのは一見容易そうであるが(中略、東京から)日帰りでは乗れない」と記し、「(上野駅を)真夜中に発車する中途半端な夜行列車で行く」か、「東京を朝出て現地で1泊する」かを思案しています。宮脇氏は前者を「しんどい」として後者を選択しましたが、当時学生だった私たちは当然のように「中途半端」ながらも安上がりな夜行列車を選び、夜明け前の真っ暗な中、旧型客車2両編成の熱塩行きに乗り込みました。
 3月とはいえ会津盆地は雪深く、夜が明けてくるとそこは一面の銀世界でした。曇り空ですが雪は降っていないようです。そのうち、「空も大地もすべて薄紫色に染まった瞬間」が訪れ、感激したことを記憶しています。
 終点の熱塩駅舎は廃墟となった洋館のようでした。今思えば廃止の3年前、もう駅舎に手を入れる状況にはなかったのでしょう。そして当時としても数少なくなっていた客車列車。終着駅で機関車を付け替える手間が嫌われたことも衰退の一因です。しかし現地でその作業を目の当たりにすれば、例え終着駅が荒れ果てても、乗客が少なくなっても、それを粛々と行う「ある種の律儀さ」に感慨を覚えたことも事実です。